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【商品仕様】
■個口数:1 (~40Wまで対応)
■E26白熱球、電球型蛍光灯、LED電球使用可能
■使用電球:1個(※電球は付属しておりません)


【商品サイズ(単位約mm)】
■商品外寸:幅約45×高さ約76 (cm)

※サイズの誤差は多少発生します。ご了承下さい。


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鷲ヶ岳遠望(永平寺町四季の森から)
2021年は本当にいろいろなことがありました。
毎年同じ事をいっているようですが、今年は特にたくさんの出来事があって、めまぐるしい一年でした。

吉野ヶ岳遠望(B&G総合グランドから)
昨年も、よく体がもったなァと、自分を振り返って不思議な感慨に打たれたものです。今年はそれに輪をかけて忙しい時間を過ごしました。その分、仕事に打ち込めたということ、感謝しなければなりません。
一昨年中止のやむなきに至った山城の講座、かたちを変えて福井新聞社さんのお力で実現できました。10月と11月に一乗谷城、波多野城と続けて登城できました。これも思いがけない偶然の重なりで、周りの方々のご支援あってのこと、実現できたことに感謝。

次いで波多野城跡の踏査。地元の保存会で馬車道の調査をやっていて、それに同調して一緒に何度か城跡を探査したこと。お陰様で、古道を確認しましたが、まだ他にもいくつか古道が見つかりそうで、今後の課題となりました。
また、観音峠付近で堀切、曲輪が3ヶ所確認され、波多野城跡の範囲が広がっていることも分かりました。西端部の城山古墳群とマーキングされた遺跡も寺院群か山城か、今後の検討の余地を残した現地踏査となりました。

3つ目はあわら市の神宮寺城跡。こちらもあわら市の指定史跡に昇格。見学の遊歩道の整備に参画しました。今後は史跡の整備計画づくりに本腰を入れた取り組みが始まります。

4つ目は鷲ヶ岳城跡の補足調査。山頂から南側の尾根筋に堀切、曲輪が見つかったとのこと。伝説ばかりが先行して、本当に山城かどうか疑問視されているところだけに、この話は再調査する絶好の機会となりました。今後、この堀切、曲輪の遺構を山頂部とどう関連付けるか、大いに注目されます。

島集落に残る宝篋印塔
5つ目は吉野地区の吉野ヶ岳を中心とした遺構分布調査。蔵王堂の絵馬の調査から始まって、板室の現地踏査、島の宝篋印塔の周辺調査等々山岳修験道の拠点として栄えた上吉野の歴史を蘇らせる作業。これはとても大きな課題だけに、一朝一夕に実現できるものではありません。始まったばかりです。
地元を含めて、様々な働きかけを通じて一つずつクリアーしていかねばならない事業だと思われます。今年はその第一歩が踏み出せた年かナ、と思っています。

第2回文化財企画展展示風景
最後は曹洞宗大本山永平寺の前身と目される大佛寺山を踏破したこと。標高800mを超す高い山奥のことで、これを踏破するのはいつの日か…、とずっと先のことと思っていたのですが、回りの後押しのお陰で遂に踏破できました。感謝。
いわゆる祖跡コースとして永平寺の開祖道元が吉峰寺から永平寺(ここでは前身の大佛寺)を修行のために往復したという尾根道があり、これを踏破することが出来たのです。今年の収穫の第一に挙げねばならない出来事です。

来年こそは、少しはゆっくりできるどうか、全く予測は出来ませんが6回目の年男になる年でもあり、急がず、慌てず、少しだけ実りある年にできたらナと思っています。
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林道大仏線から波多野城跡を望む
大佛寺は後世に伝わる記録では、寛元二年(1243)にこの地に開かれたと言われています。

「1243年(寛元元年)に道元禅師は吉峰寺に入りましたが、翌1244年(寛元二年)
にはここに大佛寺を開堂しました。この大佛寺は永平寺の前の寺名で,永平寺3世
義介禅師の時に現在の場所に移されたと推定されています。道元禅師はこの場所で
『正法眼蔵』を著述し、1246年(寛元四年)には寺名を「永平寺」と改めました。

(現地の説明板より)

仙尾山手前の林道と山道の交差点にある説明板
石列で囲われた奥の一段高い場所には4体の石仏がバラバラに置かれていて、岩がゴロゴロ無造作に散らばっています。
ここも寺域の範囲になるのでしょうが、中心部はこの一角の南側、笹藪になっている平地一体だと思われます。大きく2,3段になって広がっている平地、東西南北約30m四方はあるでしょうか、寛元二年に法堂や僧堂を整備し、あらかたの伽藍配置は整ったと言われていますが、そこから、この場所では狭すぎるとして、道元が最初に立てたのはやはり現在の場所に移ってからだという意見が厳然として立ちはだかってきます。

大佛寺山山頂
しかし話が重なってきますが、城歩きマンは当初の伽藍が、言われるようにきちんと整えられたものとは思っておりません。今、目の前にしている大佛寺跡はその後の道元の法話の中に示されるように、山深い、谷奥の庵から出発した、という印象が当たっていて、的を得ているように思えます。

大佛寺跡遠景(大佛寺山斜面から)
一日も早く、当否の事実を得る方策を立てるべきだと思います。大本山永平寺がこうした、寺発祥の問題を軽々しく扱うようなことは絶対ない、と思うのですが、なんだか天皇陵の問題にダブって見えるのは城歩きマンだけでしょうか…。
大佛寺跡(近景,南から)
現地の踏査を終えて帰途につきます。下りの道は上りの道にも増して急勾配で下っています。石段や擬木の階段があるのはあるのですが、谷道で,毎年、毎年の雨や雪で崩れ、あるいは流れて非常に歩きにくい山道となっています。直ぐ横が谷川で、どうかすると谷川をまたぎながらの下り道でした。

祖跡コース順路2(国土地理院電子地図を引用、一部改変)
下山して永平寺ダムの大仏湖に到着したのは午後4時30分を回っていたかと思います。いろいろと肉体的にはきつい山行きでしたが、大佛寺跡の現地踏査という観点では得がたい経験をした、という貴重な一日になりました。
途中の祝山から仙尾山にかけては、「湯谷・大仏線」の林道が交差する場所があり、その林道を歩きながら、九頭竜川の北に見える奥越山地、さらにその奥の白山連峰の山並みが時折陽のさす晴れ間から雪を被っているのがみえて一同感激。これも山歩きならではの得点です。参加者一同、口々に今度また来よう、来ようと同じ台詞を口走る始末。

大佛寺跡の位置(緑の○)
今日の無事に対して山の神様に感謝。
祖跡コース順路1(国土地理院電子地図より引用)
以前にこのブログで、松岡吉野地区の吉野ヶ岳「板室」のご紹介をしたばかりですが、こちらと同様、遺跡地図の所在地の記載が間違っているのも同じで、実際に登ってみての位置確定だったのかどうか、疑わしい限りです。県のホームページにも紹介されている遺跡地図のことです。誰かが、この地図の通りに登って、道を間違えたり、現地に到達できなかったら問題です。早いうちに修正をお願いしたいところです。

永平寺町吉峰寺本堂
さて、目的の大佛寺跡、やっとの思いで完歩しました。12月3日、19万歩、距離にして約14㎞歩き通しました。
意外にも山は雪でした。いまになって考えると当たり前かと思いますが、しっかりと雪が積もっていました…。標高800mを超す高さです。下界では全く気配がありませんでしたが、山頂の尾根線伝いは5~10㎝の雪が積もっています。その雪を踏みしめながら、吉峰寺の裏手から祝山(標高705.3m)、仙尾山(標高818m)を越えて、目指す大佛寺山(標高807.3m)まで踏破。

吉峰寺の奥にある座禅石
この時期、この山峰、きつい山行きでしたが何とか参加された他の5名のパーティメンバーに支えられて,無事完遂。感謝。

祝山山頂(しっかりと雪が…)
途中、波多野氏の妾が入水したという伝説の血脈の池があります。三日月形をした,本当に小さな池ですが、泥で埋まっていたものを、地元の有志の方々が泥浚いして、また元の通りの水を湛えた神秘的な池に戻したと聞きます。

林道大仏寺線から白山連峰を望む
大佛寺跡はその規模、面積的なキャパシテイの問題と、高さと谷奥という位置的な問題があって、最初の永平寺の伽藍を備えた寺ではなかった、という意見があって、二つに分かれています。これが現地調査の進まない、最大の要因だと思われます。
実際に歩いてみると、『永平寺史』に書かれているほど規模の小さな、貧弱な寺のようには感じないということ。<この項続く>
永平寺、上志比商工会発行しおりより(左半分)
暮れも大分押し詰まってきました。12月3日、今年最後の山歩きになると思いますが、永平寺町の祖跡コースを踏査しました。
12月にもなってまだ山歩き、雪が降るかも知れないというのに…。

マ、そんなことはどうでもいいのですが、本題に入ります。
「祖跡コース」とは聞き慣れない言葉です。祖跡とは永平寺の開祖である道元禅師が修行のために通った道、のことです。
即ち吉峰寺から永平寺までの山中、尾根筋の片道約6キロの道。吉峰寺の背後の山峰から南下して祝山(いわいやま)に上ります。ここは標高400m前後から705mまで一気に上る急登になります。高低差約300mの急勾配です。そこから仙尾山(せんのうやま)を通過する辺りは緩やかな尾根線沿いの道。多少の上り下りはあるようですが。

そして標高807.4mの大佛寺山。ここから少し南に下ったところ、8合目あたりとされていますが、平坦地があって、大佛寺跡になります。ここに最初の道場が開かれたといいます。現地には建物跡を示す礎石が散らばっており、石仏、石塔類も散在しているとか…。

同上しおり(右半分)
道元禅師は吉峰寺から場所を移して、本格的な修行の道場を目指して寺院を開いたのがこの大佛寺跡です。体調を崩して京都に帰るまで、道元はここで修行しながら「正法眼蔵」の続きを書いたといいます。

ただ現在まで、この寺跡については建物の規模や、伽藍配置など正確なことは一部の書物にある記載の他は殆ど分かっていません。発掘はおろか、測量調査の手も入っていませんので、詳しいことは不明のままです。随分と昔からこの寺院跡が知られているにもかかわらず、伝説の寺跡になっています。

現地は標高800mを越す奥深い山中のこととて、年に1回、禅僧の修行を兼ねた祖跡コースの山歩きイベントがある程度で、それ以外は殆ど人が寄りつかない人跡稀な空間です。勿体ないことではありますが…。<この項続く>
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大野市にある亥山(いやま)城について一言。
平成30年に発刊された『大野市史 通史編上』原始~近世で亥山城は亀山城ではないか、という新見解が出されていることを知りました。3年前にも大野市在住の「小山荘歴史の会」の方々と大野城(亀山城)を踏査した折、亀山城は亥山城かも知れないという話があるが、あなたはどう思いますか、と質問されたことがありました。それは、この市史の記載内容から出た話だったようですね、今思えば…。

小山荘歴史の会の方々に、大野城に新しく竪堀が確認できたので一緒にみてほしいという城歩きマンの誘い話に乗っていただいて、本丸周辺の斜面を歩いたときのことでした。もし、大野城が南北朝期の亥山城に該当するというのなら、イメージがぴったりで、話に弾みが付いてくる、これまでの話よりもずっと躍動感あふれる歴史の展開になりますね、というようなことを話した覚えがあります。

山麓西側駐車場にある説明板
従来の見解では、JR大野駅近くの、日吉神社のある高台を亥山城または土橋城としていましたので、お城と言っても館城で、周りに掘をもった平城の印象でした。しかし『大野市史』の見解では亀山城が亥山城だというのですから、本格的な山城になります。ですから亀山城は戦国時代の金森長近が初めて築いたのではなく、既にあった山城に手を加えて,現在の姿になったということになります。

確かにその目で見ると、近世の大野城には不要と思える階段状の曲輪があちこちに遺っている事実や、山頂部から裾部にまで達する長大な竪堀が3ヶ所以上に刻まれていること。そもそも尾根線に並ぶ連郭式の城郭と裾部の居館とが一体の城郭ということでも古式の様相をイメージさせるものです。
ただ、『大野市史』ではこうした大野城の築城に関する変遷については一切触れておらず、山城直下の二の丸、三の丸の発掘調査の所見が添えられているだけでした。

大野城遠景(山麓駐車場から)
今後、大野城の歴史についてはこの点をもう少し掘り下げて行かないと、大野城の変遷の実態が浮かび上がってこない。南北朝期と応仁の乱を経て、大野城=前身の亥山城がどのような変遷を辿ったのか、このことを追求したいと願う城歩きマンでした。